平成13年10月 (月) 曇り のち雨 近鉄線で、吉野神宮前駅へ向かいます。歩いて、吉野神宮へ。 坂道を登ってゆきます。暑い、汗をかいてしまいました。 ■ 吉野神宮 ![]() 坂がきつい道を歩いてゆきま。 ■ 村上義光の墓 ![]() 村上彦四郎義光は信州埴科(さらしな)の人で、早くから大塔宮護良親王に従って北条幕府と戦いましたが、元弘3年(1333)吉野城が落ちたとき、大塔宮の身代わりとなって蔵王堂前二天門の高やぐらの上で腹かき切って果てました。その義光の首を検分した北条方が、大塔宮でないことを知り、ここに捨てられたのを、里人がとむらって墓としたものです。 なお義光の子義隆も、父とともに死のうとしたが、大塔宮を守って落ちのびるようにさとされ、高野山に向かう途中追ってきた敵と戦い、ついにここから2kmほどへだてた山中で討死にしました。 ■ 金峯山寺 ●蔵王堂 ![]() 寺伝によると、白鳳年間に修験道の開祖、役小角の創建といわれており、平安、鎌倉時代を通じて隆盛をきわめました。 天禄2年(972)完治7年(1093)嘉禄元年(1225)文永元年(1264)に焼け、それらの時には強い信仰心にささえられて、早く復興しましたが、南北朝時代の正平3年(1348)1月28日、足利幕府の高師直の兵火にかかったときには、実に107年を要し、康正元年(1455)にようやく再建されました。 その後、天正14年(1586)六たび焼失し、天正19年(1591)に成ったのが、現在の建物です。 重層入母屋造り檜皮ぶき、棟の高さが34mもあり、東大寺大仏殿に次ぐ古建築として、吉野山における扇のかねめの役割を果たしています。 ●四本桜 ![]() ■ 吉水院 宝物殿を見学。 ![]() 元は吉水院といい、天武天皇の白鳳年間に役の行者が創建したものと伝えられ金峯山寺の僧坊であったものが、明治8年寺号を廃して吉水神社と改め、後醍醐天皇、楠木正成・吉水院宗信法印を合祀しています。 当社は、吉野の歴史を代表する殿堂で文治元年(1185)源義経が兄頼朝の迫害を逃れて愛妾靜御前、弁慶らと共にここに身をひそめ、後世にその悲恋物語を伝えています。 ![]() 13:10 出発。雨が降ってきました。 勝手神社は、焼失していました。平成13年9月27日焼失したとのこと。 坂がきついです。 ■ 如意輪寺 宝物殿を見学しました。 ![]() ●後醍醐天皇陵 ![]() 天皇の遺骸をそのまま北向きに葬ったのが、如意輪寺の塔尾陵です。 ●楠木正行髻塚 ![]() かえらじとかねて思へば梓弓 なき数に入る名をぞとどむぬる と、辞世の歌を残して四条畷に向かいましたが、衆寡敵せず、弟正時と共に最後をとげました。 現在の建物は、約350年前の再建で、正行公の歌をとどめた扉は寺宝として、宝物殿に保存されています。 雨が止んできました。 吉野山を下り、吉野駅に到着しました。 近鉄線 阿倍野橋行きの急行に乗ります。 また、雨が降ってきました。 奈良駅から京都駅に向かい、京都から新幹線に乗って東京へ帰りました。 |