平成13年12月 (日)晴れ 京都から奈良線に乗り、宇治駅へ。 歩いて、平等院へ。 ■ 平等院 ![]() 宇治は貴族の別荘が多くつくられましたが、最も有名なのが源融の別荘宇治院で、9世紀後半に造営され、のち998(長徳4)年頃藤原道長の手に帰し、さらに子の頼道に受け継がれました。この頃宇治殿と称しました。 ![]() 翌1053(天喜元)年阿弥陀堂が落成、これがのちの鳳凰堂(国宝)です。堂には定朝作、丈六の阿弥陀如来坐像が運びこまれ、当寺「仏像荘厳古今無双」といわれました。阿弥陀堂が、鳳凰堂とよばれたのは江戸時代からで、中堂左右の翼廊および尾廊から構成された形が鳳凰に似たからとも、屋上両端に金銅製の鳳凰がおかれたのによるともいいます。 ![]() 平安末期の内乱で、1180(治承4)年以仁王を奉じた源頼政がここによって平家と戦い自刃したため、平等院の堂宇の多くが焼失しました。 1335(建武2)年には楠木正成によって堂宇の多くが焼かれた。応仁の乱によりさらに衰亡、現在、鳳凰堂のみが往時の繁栄をしのばせています。 平等院ミュージアムを見学し、次いで鳳凰堂を見学。 建物の鳳凰堂(国宝)、雲中供養菩薩(重要文化財)、阿弥陀如来坐像(国宝) を国宝のオンパレードです。 平等院を出発、宇治駅へ。 京阪宇治線 宇治駅から、六地蔵駅へ。 駅から歩いて10分ぐらい、正行寺へ向かいます。 駅の駅員さんに道を教えてもらいました。 ■ 正行寺 小さいお寺です。 ![]() この寺の由緒は、河内四条畷の戦いで討死した楠木正行が、死に際して随臣・安間了意を呼び「我が首を敵に取らしむる勿れ」と遺命しました。 安間はその首級を携えて吉野へ逃れようとしたが、足利方の兵に遮られたため、遣心して六地蔵に埋葬しました。 後に後村上天皇がその忠死を追悼され、一宇の小堂を墳墓の上に建立し、今日に至っています。 ![]() 所在:宇治市六地蔵1丁目 六地蔵駅へ戻ります。 電車を乗り継いで、八幡市駅へ。 ■ 後村上天皇行宮跡 ![]() ■ 石清水八幡宮 石清水八幡宮は、男山の頂上にあります。 行きは、自分で歩いて登っていきました。 石清水八幡宮へ参拝。八幡宮では、ちょうど正月の参賀の準備をしていました。 ![]() 朝廷の尊崇厚く、939(天慶2)年伊勢に次いで奉幣され、正平・天慶の乱に際して平定を祈願、報賽(ほうさい)として平定後942年臨時祭が始められました。979(天元2)年円融天皇の参詣に始まる天皇の参拝は1代1度が恒例とされましたが、1076(承保3)年から毎年1度となり、上皇・貴族の参詣も多くなりました。 また「神功皇后の新羅出兵」に八幡が力を加えたという伝承から弓矢の神になり武家の尊崇も加わり、特に源氏との関係が深く(源義家は八幡太郎)、八幡宮が各地に勧請され、八幡信仰が普及しました。 鎌倉時代には八幡神が源氏の氏神であったため、頼朝もたびたび参詣、また元弘の際には石清水八幡宮で敵国降伏の祈願が行われました。 南北朝動乱期には善法寺家が北朝方として幕府の御師となり、田中家は南朝方として一時後村上天皇の行在所となっています。 足利氏は源氏の家系であったため、石清水八幡宮に対する尊崇が厚くなりました。3代将軍義満の母は善法寺家の出身で、義満は15度、義持は37度も参詣しています。また、6代将軍を決めるくじも石清水八幡宮で行われ、義教が選ばれています。しかし、室町幕府の衰退とともに勢力を失いました。 近世に入ると、織田信長が社殿の修理を行い、豊臣秀吉、秀頼も社領を寄進し社殿を修造しています。 ![]() 男山八幡から見た山崎方面 所在:八幡市八幡高坊30 下りは面倒くさくなって、ケーブルカーに乗って降りました。 八幡市駅から京都駅に向かいます。 京都から新幹線で、東京へ。帰宅しました。 |