平成14年 3月24日(日) 朝 小雨 のちくもり のち晴れ。 新大阪から、電車を乗り継いで、近鉄長野線「河内長野」駅へと来ました。 駅前から路線バスで観心寺へ向かいます。 ■ 観心寺 ![]() 河内の土豪、楠木一族との関係も深く、1359(正平14)年からしばらく後村上天皇が塔頭総持院を行在所となっていました。 ●楠木正成の銅像 ![]() 楠木一族の菩提寺であり、楠木正成と関係が深いお寺です。 金剛寺の山門の手前の駐車場に、馬にまたがった楠木正成の銅像が建っています。 ●後村上天皇御旧跡 観心寺 総持院跡には、後村上天皇の行在所の石碑が池の中央部に建っています。 ここが後村上天皇の行在所となり、約10ヶ月、南朝の政治をここで執行しました。 ![]() ●金堂(国宝) ![]() 後醍醐天皇は観心寺を厚く信任し、建武新政後(1334頃)楠木正成を奉行として金堂外陣造営の勅を出され、現在の金堂ができました。 豊臣秀頼の時、江戸時代の中頃、明治の初め、昭和の初め等たびたび修理し、昭和59年に昭和大修理の落慶をみました。 本尊は如意輪観音で脇侍は不動明王、愛染明王、内陣に板製の両界曼陀羅があります。 本尊の如意輪観音は秘仏となっており、公開は毎年4月17日・18日の2日間のみとなっています。 ●建掛けの塔(重要文化財) ![]() 確かに、建掛けのため建物と屋根のバランスが妙というか、珍しいです。 ●後村上天皇檜尾陵 ![]() 1368(正平23)年住吉大社で崩御後、観心寺に御陵が造られました。 ●新待賢門院墓 ![]() 立看板を見なければ、お墓とはわかりません。 ●楠木正成首塚 ![]() ![]() ●鎮守堂(訶梨帝母天堂) ![]() 1間社春日造、檜皮葺、後村上天皇によって再興、楠木正行が監督しました。 南北朝時代の建物で、重要文化財です。 ●中院 ![]() 楠木家の菩提寺であり、正成が8歳から15歳までの学問所でした。 正成の首級が送り届けられた時、長男正行が切腹しようとしたところといわれています。 ●星塚 弘法大師が境内に勧請された北斗七星の塚。北斗七星を祀るのは日本で観心寺のみであるといいます。 ●観心寺霊宝館 地蔵菩薩、弥勒菩薩、宝生如来、釈迦如来、薬師如来、聖観音四体の重要文化財ばかりの仏像が収蔵されています。 霊宝館に入るのに、入館料は必要ありません。(最低限必要なお金は観心寺に入るときの拝観料だけです。) また、路線バスで、河内長野駅へ戻り、駅前で昼食。 次は、路線バスで、市内の金剛寺へ向かいました。 ■ 金剛寺 天野山金剛寺(真言宗)は、寺伝では行基の開創で、弘法大師修行の地と伝えられています。現存の建造物は、後白河法皇の勅願で1170年代(嘉応2〜治承3)に高野山の阿観上人の再建によります。再建直後から八条女院(後白河法皇の妹)の保護を受け、女人高野として栄えました。 南北朝初期から南朝方の祈願所となり、1354(正平9)年から1359年までは、後村上天皇の行在所(天野行宮)や捕らえられていた北朝3上皇(光厳・光明・崇光)の幽閉所でした。南北朝を通じて南朝方の本拠地のため、再三兵火をうけ、中心伽藍のみが残っています。
![]() ![]() ![]() 楠木正成が後醍醐天皇から賜った刀が展示されています。正成は、湊川の戦いの前に息子の正行にそれを手渡し、その刀がこの摩尼院に伝えられています。刀には菊の御紋がついています。 また、楠木正成の「非理法権天」の菊水旗も展示されています。 ![]() ![]() 摩尼院の東側の大きな建物は観蔵院で、北朝3上皇の幽閉所でした。平安末期の御影堂(国重文)は弘法大師の御影を祀っています。 ![]() ![]() ![]() ![]() なお、開山堂横の石段上に、北朝方の光厳院の分骨所があります。 宝物庫には、延喜式神明帳(国宝)や多くの南朝方遺品が展示されています。 バスで河内長野駅へ帰り、電車を乗り継いで新大阪駅へ向かいました。 夕方になってしまいましたが、新大阪駅から歩いて、崇禅寺を見学に行きます。 ■ 崇禅寺 崇禅寺には、室町幕府6代将軍 足利義教の首塚があります。 義教、足利義満の子です。はじめは義円(ぎえん)と称し天台座主となりましたが、4代将軍足利義持の死後、くじ引きによって次期将軍と決まり還俗しました。 将軍となった義教は、幕府の権力を強化するため、専制的な政治を展開しました。永享の乱で足利持氏をを討ち、次々と守護を粛清していきました。しかし義教は、播磨の守護赤松満祐によって殺害されてしまいます(嘉吉の乱)。義教は、赤松氏の京都屋敷に招待された席上で、殺害されました。 足利義教の首は赤松氏の領国である播磨へ持ち去られ、死骸は等持院へ運ばれました。 大阪市東淀川区にある崇禅寺には、足利義教の首塚があります。 ![]()
細川玉子は、明智光秀の娘で、細川忠興の妻となり、洗礼名をガラシャといいました。 絶世の美女だったそうで、忠興は嫉妬心が強く、外出を禁止して妻を他人に見せようとはしなかったのです。 関が原の戦いの直前に、石田方に人質として屋敷を囲まれましたが、クリスチャンは自殺できないため、屋敷に火を放ち留守居役に自分の胸を刺させ死にました。 新幹線で東京へ帰りました。 |