平成16年 2月 土曜日 曇り ときどき 晴れ
新幹線で、名古屋駅へ向かいました。
新幹線は予約せずに東京駅へ来ましたが、ちょうどいい時間の新幹線に乗れました。
ホテルは、昨日インターネットから「旅の窓口」で予約。天気がよさそうだったので、急に旅するのを決めたのです。
初めて(たぶん)、名古屋駅に降り立ちましたが、名古屋は人が多いです。駅ビルも新しいです。
近鉄名古屋駅から、近鉄特急で宇治山田駅へ向かいます。
宇治山田駅着
■ 光明寺 三重県伊勢市岩渕3−3−11
宇治山田駅から歩いて、光明寺へ向かいます。
道に迷って5分ほどで行けるところを、15分ぐらいかかってしまいました。光明寺の回りは人家が密集しており、お寺の建物が見えないです。
光明寺は、寺伝によれば聖武天皇の勅願で開かれ、顕密兼学の天台宗寺院であったといいます。鎌倉末期の1319(元応元)年、月波恵観禅師が再興し臨済宗に改宗されました。
光明寺は17世紀の中頃から寺運がふるわなくなり、1670(寛文10)年11月山田の大火で焼失してしまいました。その後山田奉行の方針で現在地に移され明治維新を迎えました。
結城宗広自筆の軍中日記や後醍醐天皇の綸旨、足利尊氏の御教書などの古文書4編からなる紙本墨書光明寺などが数多く残されています。
本堂は古さを感じさせますが、あまり補修にお金を潤沢にかけていないように見うけられます。
■ 結城宗広の墓
境内には結城宗広の墓をはじめとする石塔群があります。
結城宗広は陸奥白河の武将で、1338(延元3)年、北畠親房らとともに義良親王を奉じて東国へ下ろうとして光明寺で準備を整え、大湊から出帆したが、難風にあって失敗し、この地で再挙を期したが病のため没しました。石塔群の右端が結城宗広宝篋印塔である。寺には結城宗広肖像画も残されています。
結城宗広は、伊勢でまた出帆の準備をするうちにこの地で亡くなったといいます。さぞかし、無念だったでしょう結城宗広が死ぬ間際に、自分の供養をするよりも、敵の首を我が墓前に供えよと言ったといいます。
結城宗広の墓といわれるものは、三重県津市内の結城神社にもあります。明日、結城神社にも行く予定です。
また福島県白河市の関川寺にも結城宗広の墓があります。そこは宗広の遺髪を納めたものであるとされます。
光明寺を出発。
近鉄山田線で、宇治山田駅から伊勢市駅へ向かいました。
伊勢市内は家・ビル等がたくさん建っている街です。
茨城県の街よりはよほど建物が多いと思いました。
伊勢市駅に到着。
駅構内にあるそば屋で、「伊勢うどん」を食べました。
汁が少なくて、しょうゆが濃い色をしています。食べてみると、それほど味は濃くないです。うどん自体がゆでてあり、やわらかくて温かいです。うどんに汁がしみていて美味しいです。
おみやげで、売店に赤福がおいてあった。伊勢名産のおみやげです。
JR参宮線で伊勢市駅を出発。
電車は一両編成で気動車です。
田丸駅に到着。
木造平屋建てで駅舎が古いです。戸は木の引き戸で、手で開けるものでした。
10分ほど歩いて田丸城跡へ。
玉城町役場と保育所の間の道を行きます。
■ 田丸城跡(県史跡) 三重県度会郡玉城町田丸
田丸城は、1336(延元元)年、南朝方の北畠親房が、伊勢神宮外宮神主の度会家行らに迎えられて田丸山に城塞を築城したのが始まりで、両朝合一(1392年)後は、北畠一族の居城となり田丸御所といわれました。
1569(永禄12)年の織田信長の伊勢攻めの後、信長の次男信雄が北畠氏の養子となり、1575(天正3)年田丸に移って3層の天守閣をもつ城を築きました。しかし、1580(天正8)年田丸城は火災にあって焼失し、信雄は松ヶ島城に移りました。
1619(元和5)年に紀州藩領となり、家老久野丹波守宗成が城主として入り、久野氏代々の居城となります。1869(明治2)年廃城となり、2年後に全ての建物が壊され石垣を残すのみとなりました。現在、城跡には玉城中学校が建っています。
田丸城跡は大規模な城です。遺構である建物はほとんどありませんが、立派な石垣が残っています。 たぶん戦国末か江戸時代の石組みだろうが、今でもよく残っています。
本丸跡は高台になっており、本当に城山という感じがします。広場に石垣だけが残っていますが、昔城だったことを明確に感じさせます。
今日は春一番が吹きました。暖かい風です。風が強いが、寒さは感じさせません。
田丸城跡を見学して、ちょうどいい時間の電車が無いので、玉城の町中を歩きました。JR参宮線は1時間に1本しか電車が無いです。不便ですね。田丸駅周辺には飲食店もありません。
田丸駅から、また電車で津駅へ向かいます。
だんだん空が曇ってきました。
駅をでてホテルにチェックイン。急に雨が降ってきました。
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