平成16年3月某日 土曜日 晴れ 東京駅から新幹線で静岡駅を訪れました。 静岡駅前から、日本平行きのバスに乗ります。 ■ 日本平 ![]() 清水市と静岡市との南側の境有度山(標高307m)があります。その北側の開けたゆるやかな傾斜をもつ平原は日本平(国名勝)と呼ばれ、県立自然公園になっています。 日本武尊がこの山に登って四方を眺めたという伝説から名づけられたものです。 ちょうど、今日は天気がよくて、清水港、太平洋がよく見えました。 野口雨情の童謡「赤い靴」の銅像 ![]() 「きみ」とその母親「かよ」とは、故あって北海道にわたりますが、この地で母は、まだ2歳になったばかりのわが子を、アメリカ人宣教師ヒエット夫妻に、その養育を託すさだめとなりました。 やがて宣教師夫妻には母国への帰国が命ぜられますが、このときすでに、「きみ」は不治の病におかされており、夫妻はやむなくこの幼子を孤児院に残して旅立ちました。「きみ」はひとり、癒えることのない病の床にあって相見ることもかなわない母を慕いながら短い生涯を終えたのでした。 いま、この女の子は、東京六本木にある鳥居坂教会の共同墓地に眠っております。私たちは、この幸せ薄い母と子のかなしみに思いを寄せ、母と子をふるさとの地、不二見村を見おろすこの日本平山頂に、再びあいあわせようと考えました。 「赤い靴」の女の子母子像建設委員会 野口雨情は茨城県の出身です。 日本平からロープウェーで、久能山 東照宮へ。料金550円です。 ロープウェーは、久能山下の大崩という絶壁の谷間を通っています。なかなか絶景です。 ■ 久能山 東照宮 有度山の南峰をなす久能山(国史跡)山頂に東照宮があります。 ![]() 1616年徳川家康が駿府城で没すると、遺言によって久能山城は廃止され、東照宮の神殿と墓が久能山頂につくられました。しかし「1周忌を過ぎた頃に日光山に小堂を建てて移霊せよ」という遺言があったので、日光東照宮が造営されました。 ![]() この社殿を見たくて来たのですが、ちょうど修理中で保護布が被せられており、建物自体何も見えませんでした。これで入場料をいつもどおりの値段でとるのはひどいと思いました。 ちょうど、東照宮で神前結婚式を行っているカップルがいました。 宝物館をざっと見て、久能山を太平洋側に下ります。1159の石段があります。 約20分ぐらいで下りられました。 海に面した久能山の南斜面ではイチゴ栽培が盛んで、ちょうどイチゴ狩りの季節真っ盛りでした。観光客が大型バスでイチゴ狩りに来ていました。 今日は、非常に暖かい。 久能山下バス停から、路線バスに乗り静岡駅に向かいます。 静岡駅着。歩いて駿府城跡へ。歩いて10分ぐらいでした。 ■ 駿府城跡 ![]() 1585年、家康は駿府城を築城し、翌年浜松から駿府に移りました。 そして1590年には江戸城に移り、1607年駿府城に戻りました。その後も大御所として実権を握り、1616年駿府で死にました。 家康は三度駿府に住んだことになります。 三度も住んで、最後も駿府で死んだというのは、それほどいいも悪いも、徳川家康にとって思い出深い土地なのでしょう。それとも住みやすい土地なのでしょうか。
静岡駅に戻り、遅い昼食をとります。 普通列車に乗って、静岡駅の隣の安倍川駅で下車。 安倍川駅の近くに手越河原古戦場跡の碑があるとホームページで見たので、探したが見つかりません。40分ぐらい駅の周辺を歩いたが、とうとう見つからなかったです。 結局、駅の近くで自転車に乗っていた男性の方に聞いたら、一発で判りました。駅から少し離れた、みずほ公園の中に古戦場の碑がありました。 ■ 手越河原古戦場跡 ![]() 最初は、足利直義が北条高時の遺児時行に敗れ鎌倉から西走し、この地で戦い、敗れて三河に逃げた合戦です。 その後直義の兄尊氏は大軍を率いて京都を進発し、時行を討ち、そのまま鎌倉に居すわり後醍醐天皇に反旗を翻しました。そこで天皇が派遣した新田義貞軍勢と、迎撃しようとした直義軍勢がこの地で戦ったのです。新田義貞は勝って箱根まで進出しましたが、竹ノ下で尊氏軍の反撃に敗れ京都に逃げ帰りました。 電車に乗って、浜松駅へ向かいます。東海道線で電車は4両編成です。 なぜか、結婚式に出るような服装をした女の子がずいぶん乗っています。 浜松駅に到着。 ホテルにチェックイン。 ホテルは、建設されたばかりで新しいです。今年の浜松花博や愛知万博をを見込んでつくったのでしょうか。宿泊料金は、チェックインした時に、精算機械に現金を入れる先払い方式でした。 荷物を部屋に置いて、時間も早いので、浜松市街を散策に出かけました。 |