● 白河の関
白河の関は、都から陸奥国に通じる東山道の要衝に設けられた関門です。
古より、陸奥の関門として歴史にその名を刻んできました。
歌の世界では、歌枕として数多くの古歌に詠まれています。
関の位置については久しく不明であったが江戸時代中期、時の白河藩主 松平定信の考証により、この地か白河関跡であると推定され、寛政12年(1800)に、「古関蹟」の碑が建てられました。 |
 |
白河の関は、大化の改新以後、七・八世紀頃には存在していたものと考えられ、廃絶は、12、13世紀頃と考えられています。 |
 |
|
 |
古関蹟の碑
松平定信が建てたものです。 |
 |
従二位の杉
鎌倉初期 従二位 藤原家隆が手植し奉納したと伝えられる杉の木です。
樹齢800年です。
とても大きな杉の木でした。
空堀跡や、土塁跡もあります。
城の機能を果たしていたのですね。 |
 |
 |
 |
白河の関に隣接している、白河の関ビィジュアルハウスの正面に、松尾芭蕉と門人・曽良さんがいました。
|
 |
白河の関の遠景。 |
● 皮籠原(かわごはら)の防塁跡
この地は、大河ドラマ「天地人」の原作において、直江兼続が主君上杉景勝とともに、「決戦の場」と定め、この地に徳川軍をおびき寄せ、同盟を結ぶ常陸の佐竹義宣とともに側面から攻撃し、徳川家康を討ち取るという用意周到な作戦でした。
しかし、家康は、皮籠原に現れず、兼続の作戦をすり抜けるように引き返し、石田三成との関ヶ原の戦いに臨んだことにより、幻の白河決戦の場となりました。
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉は死に際して、子の豊臣秀頼を後継とし、後顧を五大老・五奉行などに託して死にました。難波のことは夢のまた夢ですね。
秀吉が死ぬや、五大老の一人、徳川家康は自分の野望を露骨に表し、天下取りの布石を敷き始めます。
最初、加賀の前田家に因縁をかけ、屈服させます。 次に標的にされたのが、会津の上杉家です。
上杉景勝は、石田三成と共謀し、徳川家康打倒の計画はあったかもしれません。
上杉家謀反に間違いなしとし、徳川家康は、豊臣恩顧の大名も引き連れ、上杉征伐のために関東に下ってきました。
上杉景勝は、会津領内の防備を固め、徳川家・大名等との戦場に選んだのが、白河の皮籠原(かわごはらの)でした。
皮籠原に、当時の徳川家との戦に備えた防塁が現在でも残っています。天地人のロケも行われたようです。 |
 |
皮籠原の防塁跡へ来ました。
大河ドラマ 天地人の宣伝がされています。 |
 |
砕石の駐車場があり、テントまで用意されています。
でも、誰も観光客はいませんでした。 |
 |
防塁は、二重に土塁を築き、中間を掘割りにしたような構造です。 よくぞ現代でも残っているものです。まあ、ただの土塁ですが。(^_^; |
ここへ友人と一緒に行ったのですが。 友人の一言。
「徳川家康を討ち取るという用意周到な作戦とあるが、結局、家康が来なかったなんて、間抜けじゃん。」
う〜ん、確かにそう言われれば、そのとおりですね。(^_^; しかし、間抜けと言われては、上杉景勝と直江兼続が可哀相です。
妻夫木くん、北村一輝さん、ごめんなさい。 |
● 金売り吉次の墓
鎌倉時代の初めに、源義経につかえていた金売り吉次が、義経が奥州へ逃げ延びる際に、この稲葉の地で生涯を終えといわれています。 |
 |
 |
●福島県文化財センター白河館 愛称・マホロン
福島県文化財センター白河館は、 「遺跡から学ぶ自然と人間のかかわり」をテーマとした体験型のミュージアムです。入館料は、無料です。太っ腹ですね。
館内では、昭和40年代から旧石器時代までの人々の生活を、時代順に遡って紹介しています。
|
 |
また野外には、縄文時代の家や白河地方の豪族の前方後円墳、奈良時代の家、古代白河郡の役所の米倉、平安時代の製鉄炉などが復元展示され、さまざまな体験学習を行っている。 |
 |
校倉つくりで造った、奈良時代の倉庫があります。 |
 |
縄文時代の竪穴式住居です。 |
● 白川城跡 |
 |
最後に、白河結城氏の城だった、白川城跡を訪ねました。
もう薄暗くなっていました。
ここには、南朝の後村上天皇が親王時代に訪れています。 |