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白石城 天守へ続く坂を登っていきます。
白石城には、天守の代用となっていた三階櫓(大櫓と呼ばれました。)がありましたが、明治初頭の廃城令により処分とされました。 |
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現在、三階櫓などが1995年(平成7年)に木造で復元されて、現在は公園となっています。
三階櫓は文政6年(1823)に再建された大櫓(三階櫓)を忠実に復元したもので、2年の歳月をかけて完成したものものです。
石垣は野面積みで積まれ、宮大工による本格的な城が復元されました。 |
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登城しました。
お城は、本格的な昔風の造りでした。
しかし、屋内の天井にスプリンクラーの配管がありました。
三階から白石市の町並みがよく見えます。
高さがかなりあります。 |
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横綱 大砲万右エ門の銅像
お城の北側に、第18代横綱である大砲万右エ門の銅像がありました。 |
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駐車場へ帰る途中、甲冑姿の一団がやってきました。
なかなか勇ましい。 |
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天守前の広場で、イベントをするのでしょう。 |
■ 武家屋敷
武家屋敷は、旧小関家の住宅です。
宮城県白石市西益岡町6−52 |
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屋敷は鬱蒼とした庭樹でおおわれ、前面・側面を沢端川の清流が流れています。
小関家は奥方用人として活躍した片倉家の家臣で、旧小関家の屋敷は享保十五年(1730)に建築されたことが確認されています。
武家屋敷の廻りを清冽そうな小川が流れているのが印象的でした。 |
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主屋の屋根は茅葺きの寄棟造り。
簡素な間取りは、古民家と大差なく、農民住宅を基本に武士の住宅として体裁を整えているようです。 |
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床の間
簡素で、質実剛健です。 |
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囲炉裏端
この時、茅葺屋根のカヤに虫がつかないよう、わざと煙がでるような薪をくべていました。
ちょっと、煙い。 |
■ 傑山寺(けっさんじ)
宮城県白石市南町2丁目7−20 |
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傑山寺は、慶長13年(1608)に白石城初代城主片倉小十郎景綱公が妙心寺第十一世天心智寛大和尚を開山として建立した臨済宗の寺院です。
代々片倉家の菩提寺として初代景綱からの領主と家族が弔われました。 |
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片倉小十郎景綱の墓
影綱の墓は、敵に見つからないよう、一本杉(樹齢約400年)を墓印とし墓標を造らなかったと言われています。
片倉小十郎景綱は、伊達政宗の傅役となって仕え、生涯を政宗に捧げ尽くした股肱の臣です。 |
初代 谷風の墓
初代谷風、名は鈴木梶之助。刈田郡蔵王町宮に生まれます。
江戸に出て、明神林のしこ名で力士になり、讃州松平家の抱え力士になり、谷風となりました。
「谷風の前に谷風なく、谷風の後に谷風なし」といわれる古今無双の力士として絶賛されました。
当時、横綱の位がなく、大関が最高位だった時代に、「最強の大関」といわれ、9年間無敗でした。
元文3年(1738年)43歳で亡くなると、遺言により、傑山寺に葬られました。
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本堂前に、きれいな枯山水の庭園がありました。
白砂と岩で枯山水をつくっています。
ツワブキの黄色い花が咲いていました。
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正面の石は、三尊石でしょうか。
本堂も新しくて、立派です。
帰るときに、歴女と思われる方達が、いらっしゃいました。
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■ 当信寺 |
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当信寺の山門は、白石城の二の丸大手門の二の門だったものを、明治の初頭に払い下げられたものです。 |
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当信寺には、真田幸村の子達、真田阿梅・大八の墓があります。
元和元年(1615)大坂夏の陣のとき大坂方の真田幸村は落城と自分の最期を覚悟し、智勇兼備を見込んだ敵将片倉重長に、子供達を託しました。 |
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片倉重長は幸村の遺児、阿梅、阿菖蒲、おかね、大八たちを白石城の二の丸で密かに教養しました。
阿梅は重長の後妻に、阿菖蒲は田村定広の妻に、おかねは早世、大八は片倉四郎兵衛守信と名のり伊達家に召抱えられました。
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