平成21年10月12日 月曜日 ■ 長谷堂城址 ![]() 1600(慶長5)年、夏、会津征伐に向った徳川家康率いる軍勢と、上杉軍は白河の皮籠原で決戦をする予定でした。 しかし、待ち人来たらず、徳川家康は栃木県の小山から引き返します。 上杉氏は、南方の脅威が去ったので、北に転じます。北は、東軍の最上氏(約24万石)です。 上杉家は、家老の直江兼続を大将とし、最上領の南方と西北から、最上領に攻め入ります。 上杉家の総兵力は2万5000人にも及んだといいます。 上杉軍は、最上氏の居城・山形城まであと一息の所まできました。 そこには、志村光安が城主となり、約1千の手勢を従えて篭城する長谷堂城がありました。 ここに、東の関ヶ原といわれる、長谷堂城の戦い(慶長出羽合戦)が始まりました。 城を攻めるには、城に籠もる兵力の10倍の兵が必要と言われます。 上杉氏は2万人以上の兵力ですから、十分な兵力です。 しかし、長谷堂城の山裾には深田があり、ぬかるみとなっており、上杉勢は、長谷堂城を攻めあぐねました。 長谷堂城(最上氏)方は、9月16日、200名の決死隊を率い上杉側の春日元忠軍に夜襲を仕掛けます。 これにより上杉勢は同士討ちを起こすほどの大混乱に陥り、兼続のいる本陣近くまで攻め寄って、250人ほどの首を討ち取る戦果を挙げます。 この時の最上氏の武将・鮭延秀綱の戦いぶりには、直江兼続からも「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめ、後日兼続から褒美が遣わされたといいます。 戦が長引く中、関ヶ原において石田三成率いる西軍が、徳川家康率いる東軍に大敗を喫したという情報が、直江兼続のもとにもたらされました。 上杉軍は撤退せざるを得なくなり、最上氏・伊達氏連合軍が追撃に移ります。 激しい撤退線が繰り広げられ、陣頭に立つ最上義光の兜に銃弾が当たるなど、大激戦となり両軍多くの死傷者を出しました。 ここで前田慶次郎が活躍したそうです。 長谷堂城は、小さな山の上にある山城です。
これで3日間の観光終了です。 夜の高速道路をひた走って帰りました。 幸いにも、渋滞に全く遭いませんでした。 |