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月が西の空に沈もうとしています。 |
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逆に東の空には、対照的に、太陽が昇ろうとしています。きれいな朝焼けが始まっています。
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浜名湖サービスエリア
大きなサービスエリアだけあり、早朝でも、車がたくさん停車しています。 |
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日が昇った東名自動車道、伊勢湾岸道を走り、東名阪自動車道に入りました。
とたんに四日市東ICから渋滞が始まります。走行車線が3車線から2車線に変わることも渋滞の理由なのでしょう。
ずっと渋滞が続くので、御在所サービスエリアに入り、朝食を取りました。その後も渋滞しているのが見えるので、ここで1時間ほど仮眠することにしました。
目が覚めても、渋滞が続いています。仕方なく、出発することにします。亀山ジャンクションぐらいまで込んでいたと思います。
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松阪ICで降り、松阪市内を抜け、明和町に来ました。
■ 斎宮跡
斎宮跡は、三重県多気郡明和町竹川にあり、斎宮遺跡として国指定史跡に指定されています。近鉄線の斎宮駅の周辺のとても広いエリアです。 斎宮(「さいくう」、あるいは、「いつきのみや」)は、天皇に代わり、伊勢神宮の天照大神に仕える未婚の皇女、斎王の住まれる所でした。 |
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斎宮の制度は、天武天皇の時代に正式に制度として確立し(「扶桑略記」は、天武天皇が壬申の乱の戦勝祈願の礼として伊勢神宮に自らの皇女である大来皇女を捧げたのが初代であったとされています。)、以後はほぼ天皇の代替わり毎に必ず新しい斎王が選ばることとなり、南北朝時代まで長く続くことになりました。 |
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国史跡斎宮跡休憩所
軽い食事もできるそうです。 |
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いつきの宮歴史体験館
史跡斎宮跡のガイダンスをはじめ、斎宮が最も栄え、整備された平安時代の歴史や文化に触れる体験学習講座を開催したり、 十二単の試着、古代の火おこし体験など、様々な歴史体験ができます。 |
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斎宮 八脚門跡
八脚門は、都の役所や宮殿でも重要な施設にしか置かれなかったそうです。 |
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斎宮寮の想定復元模型
近鉄線の斎宮駅の北側の広場に広がっています。 |
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小さな模型ですが、よく作ってあります。 |
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斎宮、そこには碁盤の目状に道路が走り、木々が植えられ、伊勢神宮の社殿と同じく清楚な建物が100棟以上も建ち並ぶ整然とした都市で、官人や斎王に仕える女官、雑用係などあわせて500人以上もの人々が起居していました。 |
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当時の地方都市としては「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれた九州の太宰府に次ぐ規模を持っていました。 |
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斎宮では貝合や和歌など都ぶりな遊びが催され、都との往来もあり、近隣の国からさまざまな物資が集まるこの地方の文化の拠点でもあったと考えられています。) |
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ここで、地元のボランティアガイドの方とお会いし、斎王の森をご案内いただきました。直接、説明を聞くと理解しやすいです。感謝です。 |
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斎王の森へ歩いて行きます。 |
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斎王の森
史跡の中央部にあり、地元では斎王の御殿のあった場所として伝承されてきたところです。森の中には、斎王宮址の石碑や杉の木でできた黒木の鳥居があります。現在は、神宮司庁の管轄地になっています。 |
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斎王宮址の石碑 |
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大伯皇女(おおくのひめみこ)の歌碑
「我が背子(せこ)を、
大和へ遣(や)ると、
さ夜(よ)更(ふ)けて、
暁(あかとき)露(つゆ)に、
我れ立ち濡れし」 |
大伯皇女は、天武天皇の皇女で、大津皇子のお姉さんです。
朱鳥元年(686)9月に天武天皇が亡くなった後、謀反の疑いをかけられると感じた大津皇子は、大和から、伊勢の斎宮にいる姉の大伯皇女に会いに来ました。大伯皇女は彼を大和に帰らせるしかありませんでした。
大伯皇女歌碑は、ボランティアガイドに案内していただきました。教えていただかないとわからずに通り過ぎていたでしょう。 |
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■ 斎宮歴史博物館
斎宮歴史博物館は三重県立の博物館で、伊勢神宮に仕える未婚の皇女・斎王の宮殿が置かれた、斎宮の歴史を紹介しています。テーマ博物館であると同時に、埋蔵文化財センターとしての機能を有しています。 |
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こんもりした塚は、塚山2号墳という、博物館前にある方墳です。 |
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展示室では、原寸大の斎王の居室に十二単姿の命婦人形や調度、遺構の復元模型を中心に斎宮跡の発掘資料が展示されています。 |
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訪れた時期は11月で、ちょど菊の花が展示されていました。 |
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きれいです。 |
三重県立の博物館だけあり、施設内用も立派な博物館でした。
私の見学目的は、斎宮歴史博物館/特別展「後醍醐−最後の斎王とその父−」を見学するためにここまできました。 最後の斎王・祥子(さちこ)内親王と、その父である後醍醐天皇を中心に、斎宮終焉の時代を紹介していました。
元弘3年(1333)、後醍醐天皇はついに鎌倉幕府を倒し、朝廷の権威を回復すべく建武政権を樹立します。 この時、斎王に定められたのが後醍醐天皇の皇女・祥子内親王でした。
しかし後醍醐天皇の理想と現実の社会が求めるものとの落差は激しく、頻発する反乱により建武政権は短期間で崩壊します。建武政権以後は、斎王が定められることは二度となく、祥子内親王は最後の斎王となりました。
ここに飛鳥時代以来約660年続いた伊勢斎宮は、ついに終焉をむかえることとなったのです。以下が主な展示です。
後醍醐天皇画像 廬山寺蔵
騎馬武者像【重文】 京都国立博物館蔵
湊川合戦図屏風(部分) 個人蔵
太平記絵詞 国立歴史民俗博物館蔵
後醍醐天皇綸旨(東寺百合文書)【国宝】 京都府立総合資料館蔵
吾妻鑑【重文】 国立公文書館蔵
後醍醐天皇宸翰消息【重文】 京都国立博物館蔵
花園天皇宸翰消息【重文】 京都国立博物館蔵
太平記合戦図屏風 個人蔵
残念ながら、朱で、後醍醐天皇の両手のひらがおされている、四天王寺縁起(後醍醐天皇宸翰本)【国宝】は展示が終わっていました。
■ 塚山古墳群 |
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斎宮博物館敷地内および周辺に分布する群集墳で、5世紀末〜6世紀前半に築かれ、円墳と方墳が混在しています。 |
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大溝
最も広いところで、幅3.4m、深さは3m以上もあります。 |
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大溝は、平安時代の終り頃に造られ、鎌倉時代の中頃まで使われていたことがわかっています。 |