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笠置山中腹にある笠置山月光寺境内にある御大師様の石像です。岡崎石を使った約3mの大きさとのことです。
場所は↓ここです。
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笠置山の中腹にあり,眺望が優れています。下の方には,雲海のようなもやが立ちこめていました |
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■ 広恵寺城跡
住所:中津川市福岡町植苗木 |
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岩村遠山氏の一族遠山景利らは、元弘・建武時代、植苗木、城ヶ根山に広恵寺城を築き福岡城とも称されました。 |
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この城は木曽川西古道筋にあたり、美濃口、木曽路、飛騨口の守りとしての要害の地で、城南のこの平地には武家屋敷があったと伝えられています。しかし城主遠山直廉の時代、広恵寺城は苗木の高森に移されました。 |
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広恵寺城跡の麓には,広恵寺堤という池があります。 |
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広恵寺城跡まで車で入れないかなと思い,城跡表示の所の空き地に車を停め,城跡まで歩いて行きました。アスファルト舗装道路から,砂利道に変わってきます。 |
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ここで左側へ分岐する道へ曲がります。 |
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広恵寺跡
広恵寺は観応元年(1350)夢窓国師が唐より持参した観音像を祀り、弟子の枯木禅師は「智源山広恵寺」を開山しましたが、のち後継住職が絶えて廃寺となり、明治の廃仏毀釈で取り壊されました。
のちに,地元の方達の善意で,観音堂が再建されました。 |
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観音堂の後ろにある池跡の遺跡です。 |
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古井戸跡 |
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さらに杉林の中を歩いていくと、宝篋印塔・五輪塔がある墓地がありました。
この先は、広恵寺城跡へ続く道がわからず、撤退しました。山の上までは登れなかったです。 |
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岐阜県を後にし、中央自動車道で長野県南部へきました。
■ 松尾城跡
松尾城は、信濃守護小笠原氏の居城でした。小笠原氏は、深志(府中)小笠原氏・松尾小笠原氏・鈴岡小笠原氏に別れて対立しますが、松尾城は松尾小笠原氏の居城となりました。
所在地:長野県飯田市松尾1006
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天文23年(1554年)武田信玄の伊那侵攻の後、松尾小笠原氏の小笠原信貴・小笠原信嶺父子は武田氏の家臣となります。小笠原信嶺はその後、織田信長の甲州攻めの時には織田氏に降伏し、本能寺の変の後は徳川氏の家臣となりました。 |
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徳川家康の関東移封の際、武蔵国本庄城に移り、松尾城は廃城となりました。現在、城跡は松尾鈴岡公園として整備されています。 |
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城跡公園には、広場や遊具があり、親子連れの方達がたくさん来ていました。 |
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松尾城跡の碑 |
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本丸跡
芝生広場が広がり、公園として、きれいに整備されています。 |
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松尾城跡は、かなり高い丘陵上に築かれています。要害堅固な城です。 |
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さざんかが、咲いていました。 |
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■ 知久平城跡
所在地:長野県飯田市下久堅字知久平801−2
この日の最後、松尾城跡から、谷を挟んで対面の丘陵に位置する知久平城跡を訪問しました。
知久平城は、鎌倉時代初期に知久氏によって築城されました。
知久氏は、諏訪氏分流の大祝氏からわかれた神族といわれ、承久の変の功により、伴野庄知久平(現飯田市下久堅)の地頭となり、この地に受け居を構えました。
南北朝時代は南朝方として大河原を拠点とした「信濃宮」宗良親王に味方し、同じ諏訪神党に属する香坂氏や桃井氏らと共に親王を庇護しました。この縁で、宗良親王の子尹良親王の生母は知久氏の女とも伝えられている。 天正10年に武田氏が滅亡すると、この地は徳川家支配地となり菅沼定利の居城となりました。 |
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本丸跡へは、途中、途中に地元保存会の方達が標識を建てています。 |
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標識を頼りに歩いて行きます。 |
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しかし、どうも、最後の本丸跡の標識が見つかりません。 |
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りんご畑になっている、この辺りが本丸跡だったのでしょうか。 |