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元弘2年(1332)3月、元弘の変で敗れた後醍醐天皇の皇子である尊良親王は,土佐の地に配流され、この浜に御上陸されました。
以来、尊良親王は、北条方のきびしい監視なか、「王野山」、「米原の里」にと移りかわる行在所で、2年近い配所の日々を過されました。 |
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くろしお鉄道「王迎え駅」進入路交差点の国道脇に、「王無の浜」の説明板と石碑が立っています。 |
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■ 有井庄司の墓
土佐に流された尊良親王に味方し、援助した有井庄司の墓があります。 |
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有井庄司の墓は、黒潮町有井川の八幡神社境内にあります。
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北条氏が滅亡し、尊良親王が都へ帰還するにあたり、有井庄司を伴って帰ることを切に望まれました。
しかし、有井庄司は老齢のためお断りしました。
やがて、有井庄司の病死の訃が宮のお耳に達すると、宮はいたく悲しみ、供養の塔を送り、庄司の墓に手向けられたといいます。 |
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有井庄司の娘、千代之墓の碑も境内にありました。 |
■ 米原行在所跡 |
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有井川から8kmほど北に入った米原地域に向かいます。
途中、山ばかりで、人家が全く無い道を通ります。
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右手に石碑と説明板らしきものが見えます。
「尊良親王御宮跡」の標柱です。 |
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尊良親王は土佐に着き、奥湊川の領主太平弾正一族、有井庄司らに警護され太平弾正の館にお着きになりました。
その後、尊良親王は、ここ米原行在所に移られました。 |
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■ 大平弾正の墓
海から4、5km上流の大方町奥湊川に、土佐に流された尊良親王に味方し、援助した大平弾正の墓があります。
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奥湊川の領主大平弾正は、尊良親王を率先して自分の館にお迎えしました。
その後、尊良親王をの身を案じ、仏が森中腹の行在所、さらに米原の里にお遷しました。
大平弾正の墓です。 |
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■ 入野松原
入野松原は、黒潮町にある延長4kmの白浜の背後の松原(クロマツ林)です。長宗我部時代の防風の植林に始まるといいます。
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■ 千代の碑
千代の碑は、海から約8kmほと遡った黒潮町蜷川(みながわ)にあります。
尊良親王の米原宮へ食事を届ける役務を 負った千代という少女は、毎日往復六里を歩いて食事を運びました。 |
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千代は献身的に努め、毎日遅れぬように懐へ鶏を抱き、 その鶏が鳴く前に食事を届けていたと云われています。
しかしある時、食事を届ける前に鶏が鳴いてしまい、 自責の念に駆られた千代は、入水自殺をしてしまったといいます。 |