■ 六所宝塔跡
有智山城跡を探している途中に、六所宝塔跡の遺跡がありました。
伝教大師が、国家安泰、仏法興隆、国民安楽を祈念するための拠点にと、日本全国の六カ所に塔を建立したのが「六所宝塔」です。 |
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六所宝塔は、比叡山に二ヶ所(近江国比叡山東塔、山城国比叡山西塔)のほかに、日本の東西南北(上野国浄法寺、下野国大慈寺、豊前国宇佐弥勒寺、筑前国竈門山寺)の六寺院にそれぞれ法華経一千部八千巻を納める塔の建立が計画されたものです。 |
伝教大師は、遣唐使として出港する前年、延暦22(803)年に宝満山竈門山寺に籠もって、渡海の無事を祈り薬師如来四体を刻み、法華経を講じたとされます。また、同じく宇佐八幡大神を拝して、渡海の無事を祈ったと伝えられます。
この後、少弐氏の居城であった有智山城跡へ向かいました。 |
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■ 有智山城跡
有智山城は、少弐氏によって築かれたといわれます。
少弐氏は、大宰府にほど近い浦ノ城とこの有智山城に城を構えていました。 |
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長さ100m以上にも及ぶ長大な横堀があります。 |
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大手門入口です。 |
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大手門入口には、古い石積みがあります。 |
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一番高所である場所です。
ここが本丸跡なのでしょうか?
特に表示は何もありません。 |
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■ 朝日山安国寺
朝日山安国寺は、道路際に、神崎市が整備した案内標識がありますが、どこが進入路かわかりませんでした。40〜50分ほど彷徨い歩きました。
歩いていた地元の方に聞いたら、現在、安国寺は廃寺になっているとか。
江戸時代に建てられた安国寺入口の標識があります。 |
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その先に、薬師如来大師堂があります。 |
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右手に、Yakurutoの工場があります。
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先へ進むと、道の両側に篠が生え、藪のようになっていました。冬場なので、なんとか行けるかと思い、歩いていきました。 |
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2〜3分ほど歩くと、安国寺の標識がありました。
所在地は、佐賀県神崎郡神崎町城原です。 |
安国寺は、もと大光寺と称し、本尊は釈迦如来でした。鎌倉末期にはかなりの名刹であったと推定されます。足利尊氏は肥前国ではこの大光寺に手を加えて安国寺と改称し、勅額と寺領を与えました。安国寺指定は歴応2年(1339)と伝えます。
隆盛を誇った安国寺もその後寺運が傾き、44代の後、唐僧即非の弟子翠峰が中興しました。 |
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ほんとうに人気が無く、廃寺となっていました。ちょっと怖い感じがします。
お堂を拝見すると、歴史がある古いお寺です。 |
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即非の遺髪塔が翠峰によって建造されているとのことで、標識があります。
しかし、この先は、藪がすごく、歩いて行けそうもないので、ここで撤収することにしました。 |
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■ 白角折(おしとり)神社
同じく、神崎町城原にあります。
白角折神社は、平安時代から三所大明神の一つとして崇められ、櫛田宮のクシナダヒメ、高志神社のスサノオノミコトのふたりの神様とともに、日本武尊が神埼を守る御祭神として祀られています。 |
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白角折神社には、昭和40年(1965年)、佐賀県の天然記念物に指定された樹齢約千年を越える堂々たる楠の大木があります。樹高約26m、根回り約27m、千年を超えた今でも、まだ成長しているといいます。見事な楠の巨木です。 |
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■ 勢福寺
勢福寺は、佐賀県神埼市神埼町城原にあります。お寺の背後に、勢福寺城跡があります。 勢福寺城は、1353年に九州探題・一色範氏の子で肥前守護の一色直氏により築城されたといいます。直氏は後に二代目の九州探題となります。 |
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その後菊池氏、少弐氏、大友氏、大内氏、龍造寺氏の城となりました。
時間があれば、登りたかったのですが、時間が無いので、遠くから見るだけ断念しました。 |
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■ 真正寺
真正寺には、少弐氏の最後の当主である冬尚の墓があります。 |
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少弐冬尚は、家臣の馬場氏や龍造寺氏の支えで細々と少弐氏の命脈を繋いでいましたが、その両氏の内訌により龍造寺氏を討伐したことで一気に家運は傾いていきました。最後は龍造寺隆信に攻められ。居城であった勢福寺城で自害をしました。少弐氏は十七代で滅亡しました。 |
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少弐冬尚の墓
冬尚の墓は境内の裏手にあります。お寺の墓地とは離れた場所にあります。寂しげな感じがあります。お寺裏手の道路際には、冬尚の墓の案内板がありました。 |
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■ 千栗(ちそう)城跡
所在地:佐賀県三養基郡みやき町白壁
千栗城は、建武3年(1336年)小俣道剰によって築かれたともいわれます。
建武3年(1336年)、九州から再上洛を目指した足利尊氏は、仁木義長と一色範氏を残しました。
仁木氏と一色氏は、綾部城と千栗城に軍勢を入れて宮方に備えました。小俣道剰はこの一色範氏の侍所でした。 |
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千栗城跡には、現在、三嶽神社が建っています。
標高38m程の山の山頂に御嶽神社があり、城跡などか残されていたといいますが、山は大きく削られ、現在はほとんど消滅しているそうです。 |
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肥前と筑後の境に位置する千栗城は、文和2年(1353年)に宮方の菊池軍が攻撃、応安6年(1363年)には逆に宮方が籠城する千栗城に足利軍が攻撃を加えています。 |
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■ 高木八幡宮と高木城跡
所在地:佐賀県佐賀市高木瀬東町3
また、佐賀市内へ戻ってきました。
高木氏は藤原藤貞を始祖とし、高木城はその孫、高木貞永によって久安年間(1145〜1151)に築城されたといわれています。 |
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高木氏は、この城を居城とし、鎌倉時代には肥前国一宮の河上社の大宮司職を努めました。
高木氏は、南北朝期、足利尊氏に属して勢力が拡大しましたが、戦国期になると、龍造寺氏と争い、勢力が減退していきます。 |
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高木城跡の案内板は、高木八幡宮の裏側に設置れています。 |
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高木八幡宮の周囲には、水路が走っており、佐賀平野特有のクリークに築城された城郭です。 |
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向こうに見えるのが、高木八幡宮です。
これで、二日間の観光を終了し、佐賀空港へ向かいました。 |
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佐賀空港です。
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