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大内氏館は、正平15年頃大内弘世によって築かれました。
弘世がそれまで館のあった大内御堀から山口に移って以後、大内氏9代の居城となり、大内氏の領国は中国・九州地方まで及んだため、山口は西日本の政治経済の中心地となりました。 |
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大内氏は海外との交易によって富の蓄積と異国文化の移入、京の戦乱を避けて公卿・僧侶などの文化人がこの館を訪れたことにより、当時の山口は京都をしのぐほどの富と文化を誇ったといわれています。 |
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大内義隆の墓 |
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大内義隆の時世の句碑 |
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ちょうど訪れた時は、龍福寺の本堂の修復工事を行っていました。 |
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大内義興 銅像
天文20年、重臣の陶隆房(晴賢)が、大内氏の重臣杉重知・内藤興盛らを味方にひきいれて謀反を起こし、山口の築山館に大内義隆を襲いました。
義隆は山口を逃れて長門国美祢郡岩永へ落ち延び、とうとう長門深川の大寧寺にて自刃した。
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その後、陶氏を滅ぼした毛利氏は弘治3年(1557)大内義隆の菩提を弔うためこの館跡に龍福寺を建立しました。
館は、百間四方の掘と土塁に囲まれた中に造られていたといわれています。
現在、発掘工事が行われていました。
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西門(復元)
館跡の西辺の著さで、小規模な門跡が見つかりました。この門は地面に穴を掘り、柱を据え付けて、その両側を石で押さえ安定させるつくりで、地面には砂利が敷かれていました。 |
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枯山水庭園
この庭は水を使わずに石や砂で水の流れを表現する枯山水庭園で、滝から滝壷に流れ落ちた水が建物の周囲を流れていく様子を表現したものです。
この庭は1500年代前半頃つくられ、1500年代中頃に火災で庭園としての機能を失いました。火災の後に庭石のいくつかは動かされ、また西側の一部は西掘の掘削により壊されました。
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この庭がつくられた頃の当主は大内義隆と考えられ、大内氏の文化も最盛期を迎えました。そのため、この庭は華やかな大内文化を今に伝えるものといえます。
この庭は破壊を受けているものの、当時の姿を比較的良く残していることから、露出して整備されました。
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