 |
龍源寺は、慶長5年(1600年) 稲葉家初代藩主 稲葉右京貞通が創建。本堂は明治の西南戦争により消失しましたが、三重塔と山門は残りました。 |
 |
龍源寺三重塔(県指定文化財、江戸時代後期 安政五年 1858年、桟瓦葺、高さ 21.8m)
三重塔は地元大工、高橋因内が図面を引き、弟子の坂本荘右衛門が 10年の歳月をかけて完成させました。 |
 |
三重塔は聖徳太子を祀る塔で太子塔と呼ばれ内部には聖徳太子像が安置されています。 |
|
■ 高瀬石仏(国史跡)
住所:大分県大分市高瀬 |
 |
高瀬石仏へと来ました。駐車場があり,車を停め歩きます。 |
 |
歩くこと3分ほどで着きます。 |
 |
製作年代は平安中期、洞窟の中に馬頭観音、如意輪観音、大日如来、大威徳明王、深沙大将の5体があり、諸尊の色彩は一種の神秘感をただよわせています。 |
 |
深沙大将、大威徳明王 |
 |
如意輪観音、馬頭観音 |
|
■ 大友頼泰の墓
住所:大分市岡川501 |
 |
なかなか場所が特定できず、霊山寺へ向かおうしている通り道で発見しました。 |
 |
大友頼泰は大友家第三代当主で大友家惣領として初めて豊後に入国し、以後大友氏は豊後に土着し勢力を築きました。
弘安の役では香椎前浜を警護していた頼泰率いる軍勢は、博多湾内の志賀島に上陸した蒙古軍を海の中道から攻撃し、侵攻を食い止めるなどの活躍をしました。蒙古襲来絵詞には騎馬武者姿の頼泰が描かれています。
|
|
■ 霊山寺 所在地:大分市大字岡川855
|
 |
霊山寺は,中国から渡来した那伽法師がこの地をおとずれ、山の姿がインドの霊鷲山(りょうじゅうせん)によく似ているので飛来山霊山寺と名づけたそうです。 |
 |
霊山寺は,596mの霊山の山腹にあり大分市郊外にあり,歴史の荒波にもまれ、意外な有名人が訪れた山でもあります。
天台宗比叡山を開いた開祖最澄さん。それに空海さん,あと、義経の兄・源範頼。が来たと伝えられています。 |
 |
12月の週末の訪れたのですが,参拝客は少ないです。 |
 |
南北朝時代、霊山は北朝方の拠点でした。南朝方の豊後の拠点だった玖珠郡高勝寺城に籠城していた戸次(へつぎ)や賀来荘の武士が北朝方の包囲の目をかすめて同城をぬけだし、霊山に籠城したため,霊山攻撃が行われた。激戦のすえ霊山寺から南朝方を追い落としたが、このとき寺院僧坊は、ことごとく失われてしまいました。 |
|
■ 湯布岳 |
 |
湯布岳です。道の駅,ゆふいんから見えました。
山に雪が被っています。 |
 |
季節は冬ですね。 |
 |
道の駅は観光客がたくさんおり盛況でした。 |
|
湯布院をすぎ,高速道路で玖珠町まで来ました。
■ 伐株山城跡
住所:玖珠郡玖珠町山田
伐株山城は、玖珠城、あるいは、高勝寺城とも呼ばれます。 |
 |
細い山道を登って伐株山の頂上へ来ました。
冬の気候で、とても寒いです。 |
 |
こんな寒いのに、ハンググライダーで飛ぶ準備をしている方達がいました。 |
 |
山の上は,平坦地が広がっています。 |
 |
お寺の跡の遺跡でしょうか。三尊像とおぼしき石仏がありました。 |
 |
かつてお寺があったのでしょうか。石仏があります。 |
 |
|
 |
南北朝時代に築かれたと云われる。建武3年・延元元年(1336年)北朝方の一色頼行が南朝方の籠る玖珠城を攻め、数か月に及ぶ攻城の末、落とした。
|
 |
天正14年(1586年)北上する島津軍が周辺の諸城を落とし、玖珠城を取り囲んだ。島津軍は攻めあぐんだが山田伝九郎が内応し、城に火を放ったため落城した。 |
 |
帰り際、振り返ってみました。
伐株山が見えます。 |
 |
遠くから見ると、伐株山はこんな山です。
ほんとうに伐株のようです。 |
|
伐株山城から、高速に乗り、大分市内へと戻ってきました。
■ 大友親世の墓
住所:大分市六坊北町6 大友氏10代の親世(ちかよ)は、南北朝時代の武将です。 1364年兄、氏継(うじつぐ)から家督をゆずられます。南北朝期の武将・今川貞世を迎え,九州での北朝方の勢力拡大に貢献しました。 |
 |
鉄道と道路に挟まれた路地ぎわにあります。隣は水田のようでした。 |
|
■ 元町石仏
住所:大分県大分市元町2番2号 |
 |
元町石仏は、覆い堂が建てられています。 |
 |
国指定の磨崖仏です。保存状態がいいです。修復されたのでしょうか。
この元町石仏の駐車場に車を停めさせてもらい、以後、周辺を歩いて史跡見学しました。 |
|
■ 岩屋寺石仏 |
 |
こちらも覆い堂があります。
道路の崖際にあり、駐車場は無いです。 |
 |
ここの石仏はかなり摩耗・剥落しており,うっすらと形がわかるぐらいでした。 |
 |
岩屋寺石仏から、さらに歩くと、道際に「享保時代の六地蔵尊」が鎮座していました。 |
|
■ 円寿寺 円寿寺は、上野台地の東端近くにあります。 |
 |
古くは岩屋寺と称し、敷地は元町石仏まで広がっていたといい、天喜二年(1054)の文献にすでにその名が見える古刹でした。 |
 |
大友貞宗が徳冶二年(1307)に現在地に移して円寿寺と改めます。貞宗は石仏を尊び、円寿寺を菩提寺としました。 |
|
■ 大友氏館跡(上原館) |
 |
上野丘陵の北部にあった館跡で、建築年代はっきりしません。 |
 |
現在は一部の土塁や堀の跡が残ってますが、1597年(慶長2年)に 福原直高が府内城を築いた際に廃されたと考えられています。 |