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城跡には、津和野城主亀井茲政によって柿本神社が移築されました。 |
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参道右手の車道脇には、高津長幸の顕彰碑が立っています。 |
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高津柿本神社は、歌聖柿本人麿を祀る神社で、正式名称は柿本神社。
柿本人麿を祀る柿本神社は日本各地に存在しますが、その本社を主張しているとのことです。 |
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柿本人麿は当石見の地で没したと伝えられることから、その霊を神として祀っています。 |
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■ 馬谷高嶽城跡
所在地:島根県益田市馬谷町
馬谷高嶽城は、平宗範によって築かれたといわれます。 壇の浦で敗れた平家の一族平宗範がこの地へ逃れて高嶽城を築いたと伝えられます。 |
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この道の先、左手に、馬谷高嶽城への登る山道の案内標識がありました。
ただ、今にも雨が降りそうなお天気だったので、山に入っていくのは断念しました。 |
■ 稲積城跡
所在地:島根県益田市水分町 |
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益田市内に戻り、稲積城跡を訪問しました。
稲積城は、暦応3年・興国元年(1340年)日野邦光によって築かれたといわれます。 暦応2年・興国2年(1341年)益田氏によって攻められ、高津城と共に落城し日野邦光は三隅城に逃げたといいます。 |
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山麓にお墓がある山道を登っていくと、開けた場所がありました。昔は、畑地だったのでしょうか。現在は、荒れています。 |
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さらに登っていくと、頂上付近は、藪だらけでした。さすがに、それ以上は進めず、撤退しました。 |
■ 益田兼堯 銅像
七尾城跡に近い妙義寺の前に記念像が立てられています。 |
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益田 兼堯(ますだ かねたか)は、益田氏の当主を長期にわたって務め、大内氏のみならず室町幕府とも直接誼を通じ、着実に戦功を積み勢力を拡大させました。 |
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兼堯は、雪舟と親交があったと伝えられ、雪舟が描いた兼堯像(益田市立雪舟の郷記念館蔵)は国の重要文化財に指定されています。
ちょうど桜が満開でした。 |
■ 七尾城跡
七尾城跡は、国指定史跡となっています。
七尾城は、鎌倉時代に益田兼高もしくは益田兼時によって築かれたといわれます。益田兼高は、元暦元年(1184年)源頼朝の呼びかけに応じて一の谷の合戦に参加し、翌年の壇の浦の合戦でも戦功を挙げました。その功によっ石見国五郡を与えられ、那賀郡上府から益田に移ってきたといいます。 |
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西麓には住吉神社があります。
ここも、やはり、桜が満開でした。 |
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駐車場に車を停め、住吉神社への参道の石段を登っていきます。 |
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七尾城は、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で敗れ防長二カ国に減封となった毛利氏に従い、長門国須佐へ移るまで、益田氏累代の居城でした。
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七尾城は、益田川南岸の北へ伸びた山に築かれており、 標高120m付近を主郭とし、そこから北へ伸びた東西両尾根に曲輪を配しています。
現在は、益田氏城館跡として、七尾城と三宅御土居が国指定史跡となっています。 |
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二の段。
本丸へと続いています。 |
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本丸。 七尾城は、広大な山城で驚きました。 |
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本丸から、益田市内と日本海が遠望できます。 なかなかいい眺めです。 |
■ 豊田城跡
暦応3年(1340年)石見西部の南朝方の拠点となっていました。
豊田城に内田致景・致世父子が籠城し、日野邦光・新田義氏・三隅兼連・高津長幸らが救援に駆けつけました。
対する北朝方は石見国守護職上野頼兼を大将として周防や長門から三井氏・土屋氏・平子氏、石見からは益田兼見や吉川経明らが集結して激戦が繰り広げられました。
約二ヶ月にわたって繰り広げられた戦いは、北朝方が豊田城を攻め落として終結しました。 |
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南山腹にある曹洞宗守源寺の墓地から山へ入っていくと、主郭の東下の堀切に出るというのですが、それらしい道を見つけられず、断念しました。 |
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豊田城跡の遠望です。
もう、雨が降ってきました。 |
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■ 安富城
所在地:島根県益田市安富町
築城年代は定かではありませんが、元弘3年(1333年)頃に丸茂兼幸によって築かれたと云われます。以後、安富氏を名乗りました。小山ながら西側以外は高津川に囲まれた要害です。登り口が判らず、登城を断念しました。
それから、今日の宿泊先の浜田市に向かいました。 |