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正面の小山が、佐賀里松城跡ですが、生憎の雨で、道がぬかるんでいるので、登城は中止にしました。 |
■ 亀山城跡
所在地:島根県江津市江津町本町 |
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亀山城は、都野氏によって築かれたといわれます。 都野氏は、石見国二之宮の神主として那賀郡都野郷に住み都野氏を称しました。都野氏は、南北朝時代は南朝方として活躍しています。 |
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本光寺の墓地脇から山上に通じる道があります。 |
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遺構は定かではなく、藪と荒れ地が広がっています。鉄塔が建っています。 |
■ 石見国分尼寺跡
石見国分尼寺跡は、石見国分寺跡から約350m東にあります。 |
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石見国分寺跡と同じ文様の瓦が多く見つかっており、また、「比丘尼所」、「尼所」などの地名が残ることから、この地が石見国分尼寺跡と考えられています。 |
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石見国分尼寺跡は、島根県指定文化財に指定されています。 |
■ 石見国分寺瓦窯跡
石見国分寺瓦窯跡は、石見国分寺跡の西側に隣接しています。昭和42年の農地改良工事で発見されて調査が実施されましたが、焚口部分を含む全体の三分の一が失われていました。
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平安時代前半に石見国分寺、国分尼寺へ瓦を供給した遺跡です。 |
■ 石見国分寺跡
奈良時代、天平13年(741)の聖武天皇の国分寺・国分尼寺建立の詔により、各国に国分寺・国分尼寺が造られました。 |
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石見国分寺跡は、現在の浄土真宗金蔵寺(こんぞうじ)境内にあたり、塔跡と礎石が発見されていますが、全体像は明らかになっていないそうです。国指定文化財に指定されています。 |
■ 石見安国寺
所在地:島根県浜田市上府町
当初は、和銅年間に創建され福園寺と称し、永久年間(1113-18)に天台宗に改宗、国司藤原(御神本(みかもと)、益田氏祖)国兼の庇護を得て栄えたとされます。 |
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その後火災などで堂宇は焼失荒廃し、正和年間(1312-17)に益田兼長後家の阿忍が亡父の菩提を弔うために臨済宗の寺として再興したといいます。
そして、貞和4年(1348)足利直義によって石見国の安国寺に設定されました。 |
■ 下府廃寺跡 下府廃寺跡については、平成元年(1989)から4年(1992)にかけて発掘調査が実施され、下府平野を望む標高14mの微高地を造成して、西側に金堂、東側に塔を配した南向きの「法起寺式」伽藍(がらん)を造営したことが確認されている。 |
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下府廃寺は7世紀末〜8世紀初頭頃に建立され、10世紀初めまでには廃絶したと考えられます。一町四方の寺域などが想定できる堂々たる規模や多様な文様を施す軒瓦の存在などから、石見の中核的な寺院であったことをうかがわせます。 |
■ 笹山城跡 |
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笹山城については、南北朝時代、新田義氏や、日野邦光らが居城したと伝えられていますが、それ以上の詳細な記録が残っていません。 |
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北東の道路から木組みの階段があり、山道を登っていくと、山上に入ることができました。山上は雑木の林で荒れていました。 |
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笹山城跡の遠望です。 |
■ 河内城跡
所在地:島根県三隅
河内(こうち)城は、三隅氏の最初の居城跡です。三隅氏が本拠を三隅城に移してからは、南口の守り城として使用された考えられています。
益田兼高が源平合戦において、平氏の有力な西日本では数少ない源氏方に味方したことから、鎌倉幕府より石見国押領使に任じられ、石見地方全体に勢力を拡大しました。
益田兼高の次男が、三隅荘の地頭として三隅氏を名乗るようになりました。 |
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城の麓に、地区の公民館と、河内八幡宮があります。 |
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河内八幡宮の右手から、河内城跡へ登る道があります。 |
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三の丸 |
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三の丸から展望がききますが、生憎、今日は見晴らしがよくあいませんでした。 |
■ 井村城跡
井村城は、井村兼冬によって築かれたといわれます。 井村兼冬は三隅氏四代三隅兼連の弟で、井村城を築いて井村氏の初代となりました。 |
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二代井村兼雄は、鳥屋尾城と小石見城の城主も兼ね、南朝方として各地を転戦しました。 |
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登山道の入口で山腹にある春日神社は、井村氏の氏神とされます。 |
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城への登山道を登っていくと、5分たらずで山頂に行けます。ちょうど、スイセンが咲いていました。 |
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井村氏誠忠魂の石碑が建っています。 |
浜田市三隅町
■ 龍雲寺
所在地:島根県浜田市三隅町芦谷909
龍雲寺(りゅううんじ)は、島根県浜田市三隅町にある曹洞宗の寺院です。 |
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龍雲寺は、1382年(永禄2年)、三隅氏六代の信兼の開基、無端祖環の開山により創建されたと伝えられ、以後三隅氏の菩提所となりました。 |
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小雨が降っていて、幻想的な雰囲気です。 |
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立派な本堂です。歴史を感じさせます。本堂の天井に描かれた龍で知られています。 |
■ 三隅城跡
所在地:島根県浜田市三隅町三隅
三隅城は、鎌倉時代に三隅氏によって築かれたといわれます。三隅氏は益田氏の一族で、益田兼高の子兼信が三隅一帯を領して三隅氏を名乗ったことに始まります。
南北朝時代、三隅氏はいち早く後醍醐天皇のもとに馳せ参じ、南朝方として各地を転戦しました。 |
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龍雲寺から城山の頂上近くまで車道があり、終点が駐車場となっています。 |
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三隅氏は、三隅城において、暦応5年・興国3年(1342年)、観応元年・正平5年(1350年)と、北朝方の攻撃を撃退しました。 |
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山頂からの眺望はいいようですが、小雨の天候で、展望はききませんでした。残念です。 |
■ 三隅神社
所在地:島根県浜田市三隅町三隅1518の1
お天気は雨ですが、桜は満開を過ぎたあたりで、きれいでした。 |
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三隅神社は、三隅城代4代城主、三隅兼連を祀る神社です。兼連は隠岐から船上山に逃れた後醍醐天皇の元に馳せ参じて以来、南朝のために活躍しました。 |
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昭和3年、三隅町などの崇敬者の署名で神社創建の請願書が提出されました。
昭和8年12月、三隅神社の創立が許可され、昭和12(1937)年4月に社殿が竣工しました。 |
■ 正法寺
所在地:浜田市三隅町三隅
正法寺は、三隅氏の菩提寺です。 |
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正法寺は、創立が天平9年(737年)と伝わる真言宗の古寺です。
県指定の木造雨宝童子立像や木造薬師如来坐像があります。。
正法寺の門前にある三隅兼連の供養塔があります。 |
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三隅氏は石見の大豪族益田氏の一族です。
三隅兼連はその三隅氏第4代目の当主で、1350年京都洛中にて、南朝方の武将として討ち死にします。遺言は「墓は都(東)に向けてくれ」ということで、「東向の墓」と呼ばれる風変わりな墓になっています。
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■ 三隅大平桜
所在地:島根県浜田市三隅町矢原1257番地外 |
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三隅大平桜は、推定樹齢約660年、枝張り東西24m、南北29.6m、ヒガンザクラとヤマザクラの両方の性格を併せ持った貴重な品種「ミスミオオビラザクラ」は、国の天然記念物に指定されています。 |
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毎年4月には、大平桜まつりも開催され、県内外から多くの人が訪れます。
私が訪れた時、ちょうど大平桜まつりが開催されていました。大平桜は、桜の花は見ごろをすぎ、かなり散っていました。 |