平成18年5月 宮城県多賀城市 多賀城跡
 多賀城跡
 多賀城は、奈良、平安時代に陸奥国府が置かれたところです。
 多賀城跡のほぼ中央にあり内城地区には、陸奥国府政庁の遺構が発見されました。
 各時期とも、正殿、東西脇殿等が左右対称に配置され、九州太宰府の都府楼等と近似しているそうです。
壮大な雰囲気のある階段です。
多賀城は奈良時代には国府とともに鎮守府が置かれ、政治的、軍事的中心地となっていました。

 11世紀の前9年、後3年の奥州の乱においては、源頼義、義家の治所、文治5年(1189年)の源頼朝の奥州藤原氏討伐の際の滞在所、さらには南北朝の際の義良親王、北畠顕家の治所等として、史上にその名をとどめています。
現在、地上で見える遺構は、奈良時代後半(約1千2百年前)の遺構を修理復原したものです。
多賀城碑
 多賀城政庁跡の多賀城南門跡のすぐ近くに立っています。


 高さ約2m、最大幅94cmの石碑で、当時の主要な国界から多賀城までの距離、大野東人(あずまひと)が多賀城を創建したことなどが刻まれている。日本三古碑の一つ。
加瀬沼
 多賀城の外濠として北の防御の役割を果たしていました。
 江戸時代には堤防をつくり用水池とされます。
 現在、公園となり、春には桜、秋には紅葉、冬には白鳥、鴨などの渡り鳥が訪れ、四季を通じて多くの人で賑わっています。
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