■ 叡福寺
所在地:大阪府南河内郡太子町太子2146
聖徳太子の御廟を守るため建立された寺院で、境内には、太子の御廟(円墳)があります。
太子ゆかりの寺ということから、「上の太子」の名で呼ばれています。
叡福寺は上の太子ですが、大阪府八尾市の勝軍寺は下の太子、羽曳野市の野中寺は中の太子と呼ばれています。
聖徳太子自ら、ここを永眠の地と定め、生前に築いたとされます。
太子は生母・間人(はしひと)皇后と妃・膳手(かしわで)姫とともに、三骨一廟のかたちで合葬されています。 |
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駐車場に車を停め、石段を登ります。 |
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織田信長の兵火によって、一時は全山が焼失しましたが、豊臣秀頼の聖霊殿再建に始まり、順次伽藍が再興されました。 |
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金堂(府指定文化財)
重要文化財となる聖霊殿と多宝塔の間に位置し、如意輪観音を本尊としています。小屋裏に残されていた棟札から、享保17年(1732)に再建されたことが明確で、この棟札と共に大阪府指定文化財となっています。 |
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多宝塔(国重文)
承応元年(1652)、江戸の三谷三九郎によって再建されました。立派な木材を使用し、近世では正統派に属する端正な多宝塔として、昭和52年国の重要文化財に指定されました。
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聖徳太子廟
聖徳太子廟には、太子の生母・間人皇后と妃・膳皇女が合葬されています。 最初に、生母・間人皇后が亡くなり、太子と妃の膳手姫は同時期に亡くなり埋葬されました。
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太子と妃の膳手姫が、同時期に亡くなったのは、伝染病に罹ったからだという説があります。
伝染病でも罹らなければ、通常、夫婦同時には亡くなりません。
ここでも、太子の悲運があります。
昔は、伝染病に罹って死ぬということは、不名誉なことだったそうです。 |
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聖徳太子廟は、円墳に横穴があり、奥に石窟があるそうです。 しかし、宮内庁により、厳重な扉がしてあり、中は見学ができません。
聖徳太子って神様のようですから、当然ですね。(^^)
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太子町がある地域は、日本版 王家の谷、あるいは、王稜の谷と呼ばれています。
それは、ここに、以下のとおり、飛鳥時代の天皇達の陵がひしめいているからです。
敏達天皇陵 ‥ 敏達天皇は、推古天皇の夫
推古天皇陵 ‥ 欽明天皇の皇女。推古天皇は、初めての女性天皇。敏達天皇の皇后。 用明天皇陵 ‥ 用明天皇は、欽明天皇の第四皇子。聖徳太子の父。
孝徳天皇陵 ‥ 敏達天皇の孫で押坂彦人大兄皇子王子茅渟王(ちぬのおおきみ)の長男。
また、遣隋使として鞍作福利らと中国の隋に渡った、小野妹子の墓もあります。
孝徳天皇は、大化の改新後の天皇なので、時代は、少し下がりますが。
どちらかというと、蘇我氏に関係が深い方達ですね。
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■ 用明天皇陵
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聖徳太子の父親、第31代用明天皇の御陵。
四角形の一辺は、100mの長さがあります。
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当時のトップクラスの方墳(四角形の古墳のこと)。
規模、構造は飛鳥の石舞台古墳に似ているといわれます。 |
■ 推古天皇陵
日本で初めての女帝である第33代推古天皇は、聖徳太子を摂政にし、大陸の隋との交渉によって先進的な政治制度や文化、芸術などを積極的に吸収し、政治の改革や仏教文化を中心とした飛鳥文化を花開かせました。 |
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推古天皇陵は、田んぼの真ん中にあります。 |
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推古天皇陵は、東西に長い三段築成の長方墳で、内部には2つの横穴式石室があると考えられています。 |
■ 二子塚古墳
推古天皇陵の南東200m位置する二子塚古墳は、方墳を2基つなぎ合わせた双方墳という珍しい形式を有しています。
東西の墳丘それぞれに、ほぼ同形同大の横穴式石室があり、カマボコ形を呈する家形石棺がそれぞれの石室に納められています。 |
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地元では、この古墳こそ、本当の推古天皇と竹田皇子の合葬陵であるとする言い伝えがあります。 |
■ 小野妹子の墓 |
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科長神社南側の小高い丘の上に、古くから小野妹子の墓と伝えられる小さな塚があります。
妹子は、聖徳太子と推古天皇の時代、遣隋使として、中国の隋に派遣されました。
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階段を上がりきると、丘の上に塚があります。
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妹子が聖徳太子の守り本尊の如意輪観音の守護を託され、坊を建て、朝夕に仏前に花を供えたのが、池坊流の起こりになったとされることから、現在、塚は池坊によって管理されています。 |
■ 孝徳天皇陵
第36代孝徳天皇は、大化改新(乙巳の変:いっしのへん)後に即位しました。
改新に功績のあった蘇我倉山田石川麻呂らを政権に登用し、改新政治を推し進めました。 |
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しかし中大兄皇子らと不仲となった天皇は、難波宮で白雉5年(654)、孤独のうちに亡くなられ、この地に葬られました。
竹内街道沿いに位置する陵は、別名「うぐいすの陵」と呼ばれる直径約30mの小さな円墳です。 |