■ 通法寺跡・源頼義の墓
羽曳野市壷井は河内源氏発祥の地として知られています。
通法寺は、長久4年(1034年)に河内国司であった源頼信が小堂を建てたことから始まります。
前九年の役の時、東北地方で活躍した源頼義が浄土宗に帰依し阿弥陀仏を本尊としたことから河内源氏の菩提寺となり源氏の隆盛と共に栄えました。
南北朝時代には、戦火により焼失。
江戸時代になり、源氏の子孫・多田義直が5代将軍綱吉に願い出て柳沢吉保らが普請奉行となり再興しました。
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しかし、明治時代に廃仏毀釈により現在のような山門、鐘楼などを残すのみとなります。
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源頼義の墓
墓前両側にある灯籠は、5代将軍徳川綱吉に仕えた柳沢吉保の建立です。
源頼義は源頼信の長男。988年(永延2年)の生まれ、1075年(承保2年)の没。 父頼信に従ってを平忠常の乱を鎮圧し、早くから坂東の武士に名声を得ました。後に前九年の役といわれる戦いで、陸奥の豪族安倍頼時・貞任父子を討ちこれをを滅亡させました。
この功により正四位下伊予守となり、晩年剃髪し伊予入道と称された。前九年の役の勝利により東国での源氏の棟梁としての地位は確固たるものとなりました。
ここに源頼義の墓があり、東方約200mの丘陵地には父・頼信と子・義家の墓もあります。
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鐘楼が残っています。 |
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源氏館跡の碑があります。
栄枯盛衰を感じさせます。
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■ 源義家の墓
通法寺跡から約200mほど東へ行くと、小高い丘の上り口に「源頼信 源義家墓」の石碑が建っています。
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この丘の階段を登っていくと。この丘の頂上付近に源義家の墓があります。 |
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階段を登っていきます。 |
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源義家の墓は、円墳となっています。 |
源義家は源頼義の長男です。1039年(長暦3年)当地壺井で生まれている。1106年(嘉承元年)没。 義家は「八幡太郎」と号し、前九年の役では父とともに安陪貞任を討ち、出羽守に任ぜられました。 後に陸奥守兼鎮守府将軍となり、後三年の役を平定したが、私闘とみなされ、朝廷からの恩賞には与かれませんでした。 義家は自分の財産を家来達に分けあたえ、これが東国における源氏の勢力を固める結果となりました。 |
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墓は、石の瑞垣で囲われています。 |
■ 源頼信の墓 |
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頼信の墓は更に数10mいったところにあります。 |
源頼信は源満仲の3男です。(968年(安和元年)生まれ〜1048年(永承3年)没)
初め藤原道兼の家人となり、左兵衛尉に任じられ盗賊捜索などに活躍しましたが、後に藤原道長に仕え上野・常陸・石見・伊勢などの国司を歴任しました。
晩年には従四位上・河内守に任ぜられ、この壺井の里に本拠を構え土着し、河内源氏の祖となりました。 |
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■ 隆光(りゅうこう)の墓 |
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隆光は、江戸時代中期の新義真言宗の僧です。出身は大和国。大僧正となっています。
隆光は、徳川綱吉及び生母桂昌院の寵を受け、京・奈良の寺社の再建を綱吉・桂昌院親子に奨めました。結果として幕府の財政悪化の一端を担います。
綱吉の死去と共に失脚。失意の内に大和に帰郷し没しました。
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