平成23年5月
前夜に出発し、仮眠しながら、岩手県二戸市を目指しました。
幸いに渋滞にもかからずスムースに、午前9時に岩手県二戸市に到着しました。

 九戸城(くのへじょう)跡 
所在:岩手県二戸市福岡城ノ内

別名宮野城ともいい、 国の史跡に指定されています。
中世の平山城で、主に南部氏の一族である九戸氏が居城した。「九戸の乱」以後は、蒲生氏郷により改修され、南部宗家の本城となりました。

馬淵川と白鳥川と猫渕川により三方を河川に囲まれた天然の要害で、城内は空堀によって、二の丸、若狹館(わかさだて)、外館(とだて)松の丸などの曲輪群を形成し、本丸の一部には東北最古の石垣をもちます。
東北地方では有数の規模でしたが江戸初期に廃城となります。
三の丸跡から、九戸城跡本丸を望む。
九戸城跡の大手門への入口
九戸城懐古碑
ローマ字の先駆者、田中舘愛橘博士の「九戸城懐古の詩」の碑で、これも漢詩とローマ字の読み下し文を刻んだものです。
土井晩翠の歌碑
昭和19年林檎狩りに訪れた土井晩翠は、九戸城の悲劇を聞き自ら筆をとり「荒城の月」の書を刻んだ碑です。
搦手門跡近くに設置された案内所
桜が満開でした。
二の丸跡と本丸を隔てる堀跡
同じく堀跡
本丸
本丸虎口跡
九戸城二の丸跡
二の丸跡
本丸を隔てる堀
本丸の石垣
東北最古といわれる城郭の石垣は、天正19年(1591年)の落城直後に築かれた穴太積みの石垣です。
本丸跡
九戸城跡は、あまり広大で驚愕しました。
なぜに、東北地方にこのような城があるのかと不思議でした。
本丸の土塁跡
本丸跡から眺望する二戸市街
本丸の堀と土塁
桜がほぼ満開でした。
本丸土塁の桜
石沢館跡(外館)と二の丸跡の間
石沢館跡(外館)
ここも広大な曲輪です。

「九戸の乱」
 天正19年(1591年)、九戸政実は南部晴政亡き後、跡目相続争いを発端に南部信直に対して兵を挙げます。

南部信直は、前田利家を通じ豊臣秀吉から領地安堵をとりつけたことから九戸政実の反乱(九戸の乱)とみなされ、豊臣秀次を総大将に討伐軍が派遣されました。

豊臣秀次は、浅野長政、蒲生氏郷、堀尾吉晴らの諸将を率い、関東・奥羽の諸将も討伐軍に従い、同年9月、上方軍勢約6万が九戸城を包囲しました。

九戸城を攻めるも九戸城を攻め切れず、難攻不落の城に苦戦を強いられた豊臣秀吉は謀略を巡らせ、九戸氏の菩提寺である長興寺の薩天和尚を使者にたて、助命を条件に九戸政実に開城を迫りました。

政実は、これを受け入れて開城しましたが助命の約束は反故にされ、城内に居た者は、女、子供構わずすべて二の丸に押し込められ惨殺、撫で斬りにされ、火をかけられました。
その光景は三日三晩夜空を焦がしたと言い伝えられています。
捕えられた政実も豊臣秀次の待つ三ノ迫(宮城県栗原市)で処刑されました。
この乱は、秀吉による天下統一の総仕上げとされました。

 九戸城跡は、その城跡の広大、壮大さに比べて、九戸政実の悲劇を思うと悲しい気持ちになりました。
 それから、青森県三戸市の城山公園(三戸城跡)を目指します。

九戸城跡→三戸城跡・法身塚合浦公園弘前城跡最勝院浪岡城跡